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そういうおおらかな状況が変わったのは楢葉三育が大多喜短大と広島三育高校に分
離した時からだ。その時は教会がまだ律法主義だという批判を受けながらも神の戒
めを守っていた頃だったので教会にはまだ祝福があり、三育も社会から高い評価を
受けていた頃だった。三育の空中分解はそのさなかに起こった。嵯峨野教会で何度
も指摘されているように、教育システムを分解させたのは国平四郎である。その説
明はここではさておき、広島に移転した三育高校は校舎も寮も安普請の上に出来た
ばかりで手狭であった。そこに三育のよい評判を聞きつけて教会の外部から自分の
子弟を入学させたい希望を持つものが集まって収容しきれなくなった。土曜日安息
日を守って一般高校を中退させられた者達が何人も地方教会から紹介され、そうい
う学生を収容するために物置のような所を寮室に改造して無理やり押し込まなけれ
ばならなくなった事もあった。学院高校の校舎と寮の増築は急を要した。
そこで、定員過剰の三育高校に収容スペースをとるために、教団の幹部職員の子弟
は三育高校に入学させないで、アメリカなどの学校に送れば、そちらの授業料を払
ってやったほうが広島の校舎を増築するよりも安上がりであり、かつその分一般入
学希望者を収容させる余裕を作れるのではないかという考えが出された。それに従
って、その子供たち」はアメリカのSDA高校カレッジに送られたのである。今振り
返ってみて彼らがそれを奨学金制度と呼んだのは実態を正確に言い表していたとは
言えない。事実これが誤解のもとになった。地方教会には、これが誰でも教会員の
有能な者は留学する機会が与えられるという情報となって広がった。このように広
島三育の増築を省略するために教団幹部の子弟をアメリカに送り出すための方便が
教会員の将来の人材育成のために広く門戸が開かれたものと誤解をしたのである。
そういう誤解はむしろ地方教会の信徒や末端牧師の好意的解釈といえるが、真実は
このような我田引水な企てに過ぎなかったのである。医療伝道奨学金とはそういう
伏線の元に生まれた。
(続きます)
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