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(嵯峨野教会牧師) 我々の教会が他教会から牧師を招いて講演会を開くというのは、すなわち、我々の教会には聖書の教えを説くことの出来る伝道者がいないということを認めたのと同じです。我々の教会は他教会から出てきて迫害に耐えながらコツコツと聖書研究を重ねて、他教会を聖書理解の深みにおいて凌駕してきた教会です。その伝統と召しを忘れて他教派の牧師を招くとは言語道断と言えましょう。現実問題として、確信を持って聖書を説き明かすことの出来る牧師・指導者がいないという事なのでしょうか。それが一面真実であるとするなら、やはり三育学院はろくな人材を育てていなかったと言うことになります。学長、神学部長らの責任は気が遠くなるほど重大です。
数年前に三育の神学生を日曜教会に連れて行って私と電話で大喧嘩をした我妻先生、ここを読んでいらっしゃいますか。私はその時は、先生が学生に外を見せる教育のためだと言い逃れをなさったので私は少し引きましたけれども、結局神学生たちは外の日曜日の教会に見学に行って彼らに優る聖書理解と洞察を得ることが出来たのですか。出来ていたら、日本のSDA教会はもっと祝福されているのではないでしょうか。結局三育学院に行って何の実を結ばれたのですか。なぜ聖書と証の文、大争闘と1888年メッセージに徹して教育をなさらなかったのですか。義文の前に妥協教育をしたのですか。思い切り恥を知って下さい我妻先生。
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