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私は1999年に学院でバプテスマを受けました。
10年の月日が流れましたが、その間、心にかかり続けていることがあります。
私はSDAのなんたるかを全く教えられないまま洗礼を受けたという事です。
ただ金曜日の日没から始まる安息日への時が嬉しくてたまらない。神学書を読んだり、信仰の話をする事が好きでたまらない。
ただそれだけの気持ちでバプテスマを受けました。
それらの思いの何処にもSDAとしての使命だとか、SDAのなんたるかという事はありません。
私は今でも悩んでいます。
本当に洗礼を受けて良かったのか。SDAの事を何も知らないままに洗礼を受けても良かったのかと。
私は今でも自分はSDAになれていないのではないかと思います。そして、神様に受け入れられていないのではないかと。
常にこの様な苦しみが私の心にかかり続けています。
洗礼を受けた事実は変わりません。ただ、SDAになれるのかという苦しみは続いています。
裁きの座で「お前は悪い僕であった」といわれるような気持ちから解放される事は未だにありません…。
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