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  • 書評スレッド

  • 投稿者:牧師
 
ここでは、嵯峨野教会牧師が読んだ本の書評を集合するスレッドです。信仰の必要に関係のある本だけを選んで掲載します。薦められる本も紹介のために出しますが、問題ある本も時には俎上に載せて切り刻むことも致します。

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  • 終末・預言・安息日 19世紀アメリカとエレン・ホワイトの安息日論 村上良夫著

  • 投稿者:嵯峨野教会牧師
  • 投稿日:2021年 9月14日(火)19時56分37秒
 
終末・預言・安息日
19世紀アメリカとエレン・ホワイトの安息日論
村上良夫著
新教出版社 1998年
定価 4500円 (本体のみ価格)
この本は1998年に出されたというものの、アメリカの私の所に知らされて送られて来たのは、ついこの2か月前の事でした。日本ではどの程度教会にインパクトを与えたのか、どのように評価されたのかなどは、余りこちらには知らされていませんが、話によると、これを読んでセブンスデーの信仰を捨てた人もいるという事を知らされました。一体どのような事が書かれたのでそのような残念な事が起こったのかという興味と関心を持ちながら、この本を読んでみました。以下はその要点を突っ込む徹底書評です。


著者の村上良夫というのはセブンスデーアドベンチスト教会の中で福音社の編集長などを勤めておりましたが、福音社が西暦2000年の一月一日をもって消滅してしまったので、仕事が無くなり、三育学院の講師だけでやって行けなくなったのか、教団を去って、地方のローカル大学の講師などの仕事をしています。私はこの方とは個人的に出会って話をした事はなぜかただの一度もありません。教団をやめた正確な理由をできれば知りたいものだと思っています。いずれにしても、それは、恐らくこの本の内容とはあまり関係がないであろうと察せられます。




彼は、この本を称して最初のホワイト夫人とセブンスデーアドベンチストの最初の「客観的考証」であると記しています(12ページ)。しかし、どこまで客観的で公正であるかは、保証の限りではありません。たしかに、彼のそうした自負に違わず、本書では彼は多くの資料を引用してセブンスデーアドベンチストのルーツに迫っています。実に、全部で390ページもあるこの本の中で、引用文献資料の紹介が142ページにも上っています。ですから、古いアドベンチスト教会の歴史やミラー運動の資料は一応一通り渉猟した上でこれらの論文を進めているようにみえるので、それだけで、資料価値ありとしてこの本は評価出来ます。しかしながら、とはいうものの、新しいアドベンチストの行くべき未来の姿を論じているわけではありませんから、紹介されている最新のアドベンチスト教会の神学の資料の傾向には明らかな偏りがみられます。たとえばナイトという神学者でもない単なるリベラリストの好事家の意見を紹介していますが、それに対立する保守派のロバート・ウィーランドを全く無視しているとか、バランスを欠いたものになっています。ですから、たとえば1888年のミネアポリス世界総会の評価も相当リベラル側の都合のよいように(律法主義がキリスト中心主義福音主義に修正されたとか)偏向解釈をされています。引用している文献もよく吟味してみるなら、ロイ・チャムリーとかマーテイン・ボローといったどこの馬の骨とも知れぬ人の学位論文とか修士論文などというような、あまり一般性のない文献が多用されているのが見られます。従ってこの本によってセブンスデーアドベンチスト以外の人にセブンスデーアドベンチストを公平に紹介するという目的が達成されるとは言えません。それゆえ、「本書が、アメリカ史やアメリカ研究、キリスト教、神学、宗教社会学など、さまざまな分野での今後の研究の一助になりますように」という著者のあとがきのメッセージがことのほか我田引水の印象を放って、浮き上がっているわけです。



まず、彼はミラー運動のところからセブンスデーアドベンチストの解剖のメスを入れています。ミラー運動はアメリカのプロテスタント教会の中で起こった大覚醒運動の指導者です。村上はミラーの働きについてコメントして、「まさに時の設定こそミラーのメッセージの核心であり、本質であり、強みであった。しかし後にはそれが弱点となって行くのである」(20ページ)と述べています。ミラーは聖霊に感じて終末のメッセージを語り始めたプロテスタントの一信徒に過ぎませんでした。神はこのような者達を立てて、アメリカに聖霊の注ぎを行われました。欠点のある指導者であったとしてもキリスト教会が終末が近い事を意識してそれに備えるようにメッセージを与えられたのは摂理にかなった事でした。残念ながら、ミラーにはユダヤ教やイスラエルの宗教の知識がなかったので、彼の聖書研究は、ある程度いい線はいっていても限界があり、ロシュ・ハシャナ(イスラエルの新年元旦)を太陽暦で数えた上に、再臨日だと勘違いしたり、それでキリストが来られないのであとで他の人に言われてヨム・キプール(贖罪日)がその日であろうと言いなおしたりなどの二重三重の失敗をして混乱を招きました。(嵯峨野教会ではこの1844年という年代設定自体がそもそもはじめから間違っていたのではないかと考えています→ 詳細はここをクリック! ) いずれにしても、先走った思い違いからプロテスタント教会に失望があって、この大覚醒運動に若干の不信を招いた事は歴史上の事実です。そうであったとしても、ミラー運動は再臨の事実を聖書から再発見したという意味で高く評価されるものです。決して、その誤りを理由としてその歴史的意義が相殺されるものではありません。村上は時を設定していたのがミラーの誤りと決めつけていますが、良く読めばわかるように、ミラーははじめから時を設定していたのではなく、限られた知識の中での聖書研究の結果、次々と事実が明らかになって言った事に興奮して、再臨の切迫を主観的に感じ、それを危急に人々に知らせる責務があると考えた結果そのようにしたのだと考えられるのであり、決して村上が主張するようなミラー運動の変質とか堕落を意味していたのではなかったと考えられるべき所です。ミラーの好意が誤解の故に仇になってしまったという状況だったという訳です。



ミラー運動そのものは確かにナイーブな所もあり、欠点も多いものでしたが、アメリカ歴史の上では、キリスト教国として建国を果たした新生国家がはじめて大規模に聖霊の運動を経験したという重要なターニングエポックでした。たとえ後世の者がこれを如何様にも批判したとしても、その歴史的意義は微動だにしません。アメリカがピューリタンの精神を守って祝福されたので神が聖霊を国家として注がれたという驚くべき歴史は他に類を見ません。こういう背景があって、セブンスデーアドベンチストが発生したというのは、それ自体が摂理であったと考えられるべきです。アメリカがこのとき祝福されなかったのであれば、アメリカ以外のどこか別な国からセブンスデーアドベンチストが起こるべきだったと考えなければならないのです。



次に、村上は、第七日安息日が持ち上げられるようになったのは、セブンスデーバプテストからの受け売りで、それをプレブルとかジョセフ・ベイツ船長、アンドリュースなどが粉飾してそれをホワイト夫人が「神聖化」したのだと主張しています。プレブルは安息日が神の印とみなされる要因となる事を強く主張し、安息日を守らないものは滅びるというような二者択一論をベイツに紹介した人として書かれています。しかも、このプレブルが第七日安息日を守っていたのはわずか3年間ほどの話で、その後また考えを変えて、安息日はやっぱり週の第一日だと主張する人々の群れに戻って行ったという事にされています。ベイツはそうしたプレブルの気まぐれなダイコトミーを引き継いで、「安息日を福音救済史の中に位置づけた、つまり第七日安息日を黙示録などの聖書の終末預言の枠組みの中でとらえ、さらに第七日安息日遵守者たちに、終末の預言と歴史における”残りの民”としての独自性(自己証明)を与えるものになった」と村上は書いています(68ページ)。これによってセブンスデーアドベンチストは律法遵守によって救われる事を主張する宗教団体になってしまったと村上は断じています。そこで、そういう不健康な状態を回復させたのは西海岸リベラルのジョーンズとワグナーだったという筋書きになるのです。1888年のミネアポリス世界総会は波乱の総会でガラテヤ書の信仰による義の解釈をめぐる大論争が起こりました。この総会の総括的評価につきましてはいろいろな解釈がわかれていますが、ナイトのようなリベラル聖書学者(神学者ではない)は、「これは別に新しい事が教会に起こったわけではなく、セブンスデーが本来あるべきバランスの取れた福音的キリスト教会の姿に戻ろうとしただけの事だ」という軽薄な評価をしていますが、保守派のロバート・ウィーランドは「ミネアポリスでは律法と福音が一致する事を再確認したのである」と評価しています。村上氏は後者の考え方があるのを知ってか知らずか、まったく言及せず、前者の見解に乗って、教会の歴史を論じています。もっと1888年の資料を読んで研究をしていれば、そうは書かなかったであろうと思われます。



村上はまた上のマーテイン・ボローの学位論文(?)を引用して、「安息日の過度の強調」、「イエス・キリストの強調不足」を糾弾しています(102ページ)。そしてさらに、安息日の真理の回復の結果、この教会の安息日遵守者にとって、聖書の世界は現実のものだった、として、聖書のメタファー(比喩)の世界を現実に移植しようとする人々をつくり出したと指摘していますが、これは恐らく村上氏がバルトのような実存主義的神学またはニーバーの実践神学のファンならば、我慢のならないことであっただろうと容易に察する事ができます。実際、セブンスデーアドベンチストが第七日安息日を回復するという事は、過去に失われた聖書の民の本来の生活パターンや倫理のパラダイムを回復する意義があったわけです。ですから、合理主義を重んじるカントの流れをくんだ思想家や神学者からみれば、第七日安息日を回復しようというセブンスデーは時代錯誤か「トン」でも説のようで耐えられないかもしれません。しかも、これはユダヤ人が二十世紀になって奇跡の復活を遂げるという事がまったく予想すらもされていない十九世紀に起こった出来事です。神の霊感の導きと聖霊の助けが無ければ、本来烏合の衆だった再臨信徒の集団はセブンスデーという一個の教会にはまとめられなかったでしょう。しかし村上氏にとっては、こうした烏合の衆が、ホワイト夫人の霊感の幻によって束ねられたという事実すらも面白くないらしく、本書の各所で不快感を表明しています。民主的な教会運営ではないのではないかとでも言いたそうですが、彼が左翼的な団塊の世代の人であればそれ位のことを言っても驚くには値しないかもしれません。挙げ句の果てには、「ひとりよがりの自己絶対的、自己義認的な考え方」(102ページ)で、残りの民を自称したとまでセブンスデーを過激に罵倒していますが、尤も、これには一理ある面はあって、セブンスデーが何のために選ばれたのかを理解出来ない信徒は確かに独善的になり、自分の教会だけが救われる14万4千人だといいかねない所はあります。それは確かに憂慮されるべきこの民の恥部であるというなら、私もことさら村上氏には反対しない方針です。しかし、セブンスデーアドベンチストが選ばれて建てられたのは、実にこの第七日安息日の回復そのもののためではなかったのかと思います。そのために「選ばれる」必要があったのです。この真理の回復の使命は決して小さい事ではありません。



第七日安息日の回復を語っている時に、「キリストの強調が足りない」というのは、ある意味で言いがかりの部類に属する非難であり、必ずしもフェアな批判ではありません。安息日の主は人ではなくキリストです。それは村上良夫氏自身が214ページで、引用に傍点を振ってまで強調していることで、言い逃れはできません。安息日がキリストの日である事が理解出来るなら、第七日安息日を強調してキリストを語っていないと批判する理由が皆無なのです。神のものであると認める事が安息日遵守の第一歩です。それが認められないのはまだ人間の精神を愛しているヒューマニストです。それにしても、どうしてこんな所で無名の修士のボローだかの学位論文などが引き合いに出されたのでしょうか。あとがきを見ると村上氏はボローの論文を見つけて送ってくれた人に謝辞を書いています。実はこの人は、学校の安息日遵守問題を回避するために自分の子供に卒業までバプテスマを受けさせなかったという人です。こういう動機の信徒からの支援を受けてこのような著作に及んだものであるなら問題が多すぎます。この本を読んでアドベンチストの信仰を捨てた人もいるならば、なおさらのこと看過し難いものがあります。



村上の日曜休業令の由来に関する説明は執拗を究める程詳細で、実に面白いものがあります。その中でも極めつけは、1880年にカリフォルニアで日曜休業令が出て、多数のアドベンチスト信徒が逮捕された事件を描写している事です(138ページ)。この時数百名の第七日安息日遵守のアドベンチストが逮捕されましたが、当時、日曜休業令を支持していたのは保守的な共和党で、これに反対していたのはリベラルな民主党でした。それで教会は民主党を支持して政治運動を行い翌々年の選挙で民主党が勝利したのでカリフォルニアの日曜休業令が撤廃されました。実は、アドベンチストが民主党より、というかリベラル思想よりになったのはこういう伏線があったからで、以後カリフォルニアのアドベンチストはリベラリストの民主党を支持する傾向が生まれました。今日、アメリカの民主党というのは、フリーセックス、ホモの人権尊重、学校における創造論教育の禁止、医療の社会主義化を推進する不穏なリベラリストの政党と化していますが、そういう政党に支持してもらって信教自由のステータスを勝ち取った歴史を作ってしまったのは実に不幸な事であったと思います。日曜休業令については、一応ピークは1890年代をもって収束したものとされていますが、これが再び起こるというのがホワイトの預言の示唆していた所です。しかし、結局日曜休業令がその時点でそれ以上発展しなかったので、セブンスデーは態度を変更しなければならないように追い詰められたと村上は踏み込んだ解釈をしています。しかし、預言者ではない村上に日曜休業令は再び起こるまいとは言えないであろうと思います。



結局セブンスデーアドベンチストはアメリカでなければ発生出来なかったという視点が村上の歴史評価には存在しません。彼はアメリカ史についてどれくらい広い知識を持っていたのかは疑わしいものがあります。その一つの証拠例として、村上氏はホワイト夫人が過度のアメリカ中心主義者であったとして彼女を批判していますが(234ページ)、これは行き当たりばったりのヨタ論であり、十九世紀のようなテレビもラジオもろくな報道機関もない時代にアメリカが世界の中心になると言い切れた事は寧ろ驚きの念を持って理解されなければならない事です。当時の一般のアメリカ国民は、情報が無いので世界の他の国と比較する自意識は育っていませんでした。この事実をもってしてもホワイト夫人の洞察は進んでいたと認めざるを得ないのに、村上はそれをなんと「19世紀のアングロアメリカニズム」のせいにしています。事実は19世紀のアメリカはヨーロッパ諸国からは野蛮で未熟な国家と思われており、アメリカ人自身も田舎者の自覚を意識していました。これは一種の劣等感であり、優越意識にはほど遠いものです。アメリカ国粋主義や孤立を尊ぶ国家主義が少しずつ台頭し始めるのは十九世紀もかなり押し詰まった後の事であり、それをホワイト夫人の著作の書かれた時代に普遍的に存在するものとして想定するのは村上のアナクロニズム(時代錯誤)です。



第七日安息日論の考察として村上が結論しているのは、進化論などの台頭する中で真っ向から逆らって、主の創造の記念日として安息日を強調したということです。村上は正確にも、これを「人間中心思潮(ヒューマニズム)の大波に対する防波堤が、神による創造を記念する安息日であった」としていますが、これは私も賛成する事ができます。しかも、ユダヤ教社会の復活の兆しが見えず、そうした古いトーラーの伝統の全く見えなかった時にこれをやったというのが凄いと思います。しかし、村上は、続けて、

「エレンホワイトの安息日論は時代の所産であったと言える。彼女の主張の多くは十九世紀の安息日主義者達に共通していたものであった。しかし彼女のユニークさは霊的世界の実在性という彼女の強烈な直感のもとに、当時の安息日厳守主義の思想と実践を大争闘という枠組みの中でとらえ直したことにあった十九世紀米国の安息日厳守主義はほとんど廃れてしまったが、えれんホワイトの安息日論は1世紀後の今もなおセブンスデーアドベンチストによって信奉され、説かれ続けている。彼女の教えは霊感を受けた神よりのメッセージであると彼らは信じているからである。彼女の安息日メッセージはセブンスデーアドベンチストに自己証明と活力を与え続けて来た。しかし同時に、”霊感による”彼女のメッセージは、アドベンチストを十九世紀米国の思考と行動に閉じ込めてきたとも言えるのである」(237ページ 引用符は原文のママ)
「”預言者”を錦の御旗とする選民意識・優越意識にこだわりつつ、十九世紀米国の安息日主義を固守し続けるのか、それとも”預言者”の”託宣”に含まれる時代性と普遍性をより分けつつ、もっと伸びやかな成長へと向かうのか。SDAのゆくえを見守りたいと思う。」(243ページ 引用符は原文のママ)

と書いています。村上はホワイトのメッセージは神からのものであると信じていないのです。ホワイトの言葉を「託宣」と揶揄する程の不遜ぶりが鼻につくかもしれませんが、それはこの際はご愛敬として大目に見ましょう。しかし、読者のみなさんもご存じのように現実には、第七日安息日遵守の回復はセブンスデーアドベンチストの奇を衒った専売特許に終わっていません。1947年に、イスラエルは奇跡の国家再建をなし、それに伴い世界の各所でユダヤ教の側でも安息日の回復が訴えられました。1980年代にはメシアニック・ジュダイズムが復興し、それを見て一般のプロテスタント教会でも第七日安息日の見直しが進んでいます。このようになる事は十九世紀の時点ではアドベンチストもホワイト夫人も誰も予想しませんでしたが、その結果はセブンスデーが培ってきた第七日安息日の使命が生かされるものとなってきています。安息日に回帰することは、決して村上の主張するように十九世紀のアメリカを追慕するのものでは断じてなく、そうではなくて、初代教会の時代のイエスの教会の本来の姿に立ち戻ることなのです。読者がそれを理解する事ができなければ、この本はその初めの著作趣旨を全う出来ません。


イスラエルを追われたユダヤ人達は二千年もの間世界各地を放浪して来ましたが、それまで、安息日を守る事によって、ユダヤ人の家庭と教育、信仰と文化を守り育てて来ました。安息日を守らなかったらこの民はとうの昔に跡形もなく四散して行方不明になっていたでしょう。いうなれば、ユダヤ人が安息日を守ったのではなく、ユダヤ人が安息日によって守られて来たのです。セブンスデーアドベンチストにおいても、この教会が安息日を守ったのではなく、安息日を守って来たからこそ、祝福を受ける事ができて、どうやら二十一世紀の初めまで存続する事ができたと考えなければなりません。安息日の主は人ではなく神ですから、安息日の祝福を人に付与されるのは神にほかなりません。本書では村上は執拗にセブンスデーアドベンチスト教会の本質は第七日安息日を断固として守る事だけだということを証明しようとしましたが、その試みは成功したと思われます。セブンスデーアドベンチストの本質的な使命は十九世紀、二十世紀のキリスト教世界に第七日安息日を回復してイスラエルと和解をすることです。それを数多くの証拠を上げて気がつかなないままに証明してくれた村上氏には感謝をしたいと思います。もしわれわれの教会が第七日安息日を固く守るのをやめるなら、SDAはもはやSDAではありえず、それ以後の存在理由が消滅する事をも彼は間接的に論証しました。安息日を捨てるSDAは神から捨てられるしかありません。安息日を守って神の驚くべき祝福の約束の成就を証するSDAでなければ、せっかく選ばれた”選民”も過去のイスラエルのように捨てられてしまうでしょう。



けっこういい加減な解釈も多いものの、その集められた資料としては貴重なもので、将来に引用をしながら議論をする限りにおいては非常に価値のある本であるというのが私の結論です。そういう意味にでは、もし定価の4500円を払って買って手に入れたとしても損をしたとは思わないでしょう。しかし、柔らかい霊の食べ物しか食べられない人、簡単に人の意見に左右されてしまう人には勧められる本ではないというのは事実です。




2001年11月23日記す



嵯峨野教会牧師  長谷川寿紀


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  • [21]
  • 山形謙二の誤解の基礎

  • 投稿者:嵯峨野教会牧師
  • 投稿日:2021年 7月11日(日)06時15分37秒
 
山形謙二の新刊「主よ、み国を!」の徹底批判はまだ始まったばかりです。彼の書いている事は多方面にわたっておりますので、嵯峨野教会牧師はそれを覆すために広く批判を拡大して参りますのでこの連載は執拗に続く予定ですのでここではしばらくお付き合い願います。

同書のp60に、次のように書かれています。

   「またアンドレアセンは、「あがないの働きは十字架上で完成し
   なかった」と主張しました。これはユライア・スミスの主張を
   継承するものでした。」


これは誤解に基づくものです。ユライアスミスは十字架のあがないの捧げものが完全なものであったと認めています。贖いそのものは完成していたと理解しています。一方、罪の歴史の清算の最後の詰めとして調査審判が行われるのですが、これは贖いの計画を補完して完成として行われるのではなく、救いの計画が完全なものであることを証しするためにあるものという理解です。それについては既に嵯峨野教会の過去ログにも書きましたが必要とあれば何度でも蒸し返して執拗に論じ申し上げます。その調査審判がなくては福音の正しい理解はできませんが、だからといって調査審判が十字架でやり足りなかったことを全うする訳ではありません。ユライアスミスもアンドレアセンも十字架で贖いが完成していなかったと言うようなことは何も言っておりません。あればその個所を見せて頂きたい、山形謙二先生。これは公開質問です。SDA嵯峨野教会は原則的信徒を支援するためのインターネット教会です。よってこれは公文書です。誤解のないようにお願いを申し上げます。

嵯峨野教会牧師
そもそも論理的に考えれば誰しもわかることですが、もし、キリストの働きが十字架上で完成していなかったら、われわれが再臨の前に完全になることが出来ると言う主張自体が論理的に破綻しています。山形謙二がこうした相反する二つの主張(人間は神の戒めを守ることが出来るという主張と、贖いの働きは十字架上で完成していなかったという主張)を同一人物の主張として並べている所に論理の自家撞着が最初に見て取れるのです。

  • [20]
  • 山形の自家撞着

  • 投稿者:嵯峨野教会牧師
  • 投稿日:2021年 7月 6日(火)09時47分52秒
 
山形謙二の問題の「主よ、み国を!」の改訂本にはこのような文が記されています。

 私たちの思想霊感の立場は、聖書の無謬説の立場を取りません。
 聖書には無謬とは言えない一見矛盾するように思われる表現があ
 りますが、実はそのような表現にも意味があるのです。単一メロ
 ディの言葉(斉唱)よりも、異なった音の和音によるハーモニー
 (重唱)のほうが、美しく深い表現であるように、聖書の多様な
 表現を通して、私たちはより豊かな福音の祝福にあずかることが
 出来るのです。(p142)


わたくしたちセブンスデーアドベンチストは確かに思想霊感の立場をとっておりますが、聖書の無謬性と一貫性を信じて疑うものではありません。聖書の記事の中で矛盾に見えることは聖書の問題ではなく、我々人間の限られた知性と理解力の問題であり、それ自体は矛盾ではないと言う認識です。我々はこの世界が何十億年も前ではなく、6千年前に創られたことを信じ、紅海が分かれてイスラエルの民が渡ったことも、キリストが水の上を歩いたこと、キリストが水をぶどう酒に変えた事も、何も矛盾を感じていないで、そのまま事実として信じられるのです。聖書の矛盾が美しい聖書のハーモニーであるという奇妙な説も思いついたことはありません。

  • [19]
  • ご参考

  • 投稿者:嵯峨野教会牧師
  • 投稿日:2021年 7月 5日(月)20時30分10秒
 

https://youtu.be/jG0TZgwd7vQ


  • [18]
  • 完全≠成熟

  • 投稿者:嵯峨野教会牧師
  • 投稿日:2021年 7月 5日(月)12時28分26秒
  • 編集済
 
キリストはわたくしたちに父なる神が完全であるようにあなたがたもそうなりなさいと教えている聖句がありますが(マタイ5:48)、山形は文脈解釈を口実にしてそれを字義通り解釈することを拒否しています。わたくしたちはそれに対していくらでも反撃する準備をしていますが、そこまでしなくても、これはある意味で誰でも理解することが出来ると思います。ヘッペンストールの詭弁によって、完全になるという事は成熟する事であって罪が無くなる事ではないという言い逃れもしていますが、それも必ずしも聖書的ではありません。なぜならば完全と成熟は全く別の異なるコンセプトであり、成熟していなくても完全で罪がないという状況もあり、逆に円熟していても罪の汚れにまみれている教団指導者や牧師もいるのです。そう考えますと、円熟は完全に近づいたことの指標としては何の役にも立たないばかりか、信徒を詭弁でミスリードする形而上的で危険な思弁になり得ます。それにキリストによって罪が取り除かれなければなんのためのクリスチャンなのかキリストの十字架は何のためだったのかと自他をシリアスに問い詰められなければならなくなるでしょう。

完全≠成熟

山形謙二はアンドリュース大学のウィリアム・リチャードソンの「イエスは、私たちの無私の愛の標準は(異邦人より)高いものでなければならないと言われた。ちょうどわたしたちの父なる神がそうであるように、私たちの愛の行為の標準は、完全に公平で無私のものでなければならない。多くの者の気を重くさせた、絶対的に罪のない行為という意味での完全という思想がこの文脈には全然ない事に注意を向けることは、極めて重要である」(Adventist Review, 1993)(p117)というヒューマニズムかぶれの引用をして信徒に対してマタイ5:48の誤解釈を誘導しています。リチャードソンがこれを書いたのは、SDAのリベラルがジョージナイトと一緒に巻き返してきたときで、明らかに原則主義者を切り崩すための便乗として出てきた文書からの引用です。わたくしたちはセブンスデーアドベンチストですから当然我々はキリストにあって完全になれることを信じて日曜教会の人にもそう訴えています。しかも完全になれると言うのはキリストの十字架の功に依るのであり、わたくしたち自身の功績は全くないのですから完全になれることを信じている我々をLGT(Last Generation Theology)などという乱雑で穴だらけの思想分類で自己中心的であると批判されるいわれはありません。そもそも、完全とは単に罪が無くなるという狭義の意味だけではなく、神との関係を完全に回復するという意味で喜ばしい良い知らせ、福音であり、それを想う事で気が重くなると言うリチャードソンという神学科の卒業生も何を寝ぼけたことを書いていたのかと率直に驚きます。気が重くなって自己嫌悪になるのは自分の自我の力に頼ろうとするからです。そういう中途半端な神学生の思いつきで書いたような文を引用して日本の信徒をミスリードする山形謙二にも失望を禁じ得ぬものです。なあマスヤ。

  • [17]
  • 山形謙二はハードコア

  • 投稿者:嵯峨野教会牧師
  • 投稿日:2021年 7月 4日(日)20時40分51秒
 
山形謙二が出版して、花田がベタボメしている「主よみ国を!」の改訂新版は、実質的に旧版とは全く違う内容です。島田が巻頭の推薦文に書いているようにセブンスデーは最後の特別なメッセージをもつ教会である。山形はその漸進的な真理の理解をさらに深めた最新のアドベンチスト神学の動向を網羅してまとめたものがこの本であるということになっています。その建前は非常に立派で高潔のようですが、しかし、この本の前半部分は驚くばかりの原則主義に対するジョージナイトの言葉を借りた激烈な批判と否定であり、実は思い返せばこれが山形の前からの本音ではなかったのかとも思われます。原則を守る使命を持ったSDAを律法主義として罵倒するジョージナイトの主張を全面的にバックアップしているのが本書の最初の3章までを読めば誰でもわかるのではないでしょうか。

山形のこの本の前半部は、この現代SDAの教会神学の流れは、召しと原則に回帰するアンドレアセンの指摘を痛烈痛快に否定するところから始まっています。現にジョージナイトも彼の本の72ページで引用されているが、「彼(アンドレアセン)の20世紀のアドベンチスト神学への影響力は、いくら強調してもし過ぎることは無い」として、ジョージナイトにとってもアンドレアセンの正しいSDA観は目の上のたん瘤のようなものだったと認めています。ジョージナイトはもともとSDA小学校の教員でしたが、教会の律法主義者に躓いて、これをぶっ壊すにはアンドレアセンの考え方を叩き潰さなければならないと気が付いて、捲土重来で猛勉強の挙句アンドリュースで博士号を取り、怒涛のような著作をあらわしてSDA教会をリベラル路線に巻き戻そうとしてきたのです。ジョージナイトにとってはアンドレアセンは教会生活の中の好敵手だったという訳です。

それを見た本来リベラルのチンピラシライシ、ソネダなどが大喜びで「これからのSDAはこれだ」と言って日本に持ち込んできたのがナイト神学だったという訳です。このように、ナイトを立てて、アンドレアセンを引き下ろしてリベラルの大逆転を狙うというのが、現代アドベンチストの流れであり、それをもっともらしく手引きする誘導本を書いたのが山形謙二である、という構図がここから見えてくると思います。林の石松の立ち位置もここから見えてくるものもあると思います。徹底解剖という形で始めてゆきましょう・
嵯峨野教会牧師
この山形謙二の新書を読んでただちにひとつの謎が解けました。
ライフ6月号にKAHの元院長の山形謙二が不思議なことを書いていましたが

  1972年、医学を志して留学し、米国のアドベンティズムに出会った時、
  実に大きな喜びと感動を覚えたものでした。それは広く深いアドベン
  ティズムの世界との出会いでした。1970年代は信仰による義やエレン
  ホワイトの解釈を巡って、多くの神学的議論がなされた時代でした。
  それらのただ中にあって、第一線のアドベンチストの神学者たちが信
  仰と祈りのうちに、絶えず新しい真理を求めつつ、神学の時代的課題
  と真摯に取り組んでいる姿を目の当たりにして、非常な感銘を受けま
  した。彼らこそがアドベンチスト神学の地平線を切り開き、より深い
  真理への洞察をしてきたのです。p14,15.


なぜアメリカに行った先のSDA教会の内部の大混乱を見て、山形は感動して大喜びしたのに長谷川は憂慮を覚えたのか、一体どうしてそういう違いが起こったのか?と考えてみると、山形はSDAの閉鎖コミュニティの純粋培養で浅はかな律法主義の中で育ったのでアメリカのリベラルSDA神学が素晴らしく見えたのです。わたくしは異教社会の中から召されて出てきたので、初めからそういう偏見がなかったのです。

  • [16]
  • 山形の嘘引用

  • 投稿者:嵯峨野教会牧師
  • 投稿日:2021年 7月 3日(土)21時18分34秒
  • 編集済
 
山形謙二の本の批判を始める前に、まず故人の名誉のために一言山形謙二の嘘をひとつ指摘しておきます。この本の73ページにこんなことが書いてあります。

  一方、教会内に置いて、QODへの批判が当然の如く出てきました。
  その最たる批判者がアンドレアセンでした。彼は「教会への手紙」
  を公表して反対の論陣を張り、世界総会と真っ向から対立しまし
  た。彼は自らの立場を支持するエレン・ホワイトの言葉を引用しな
  がら、QODを受け入れるのか、エレン・ホワイトを受け入れるのか
  の二者択一の決案を教会指導部に迫ったのでした。彼は「アドベン
  チスト神学の基礎的柱は破壊された」と主張し、当時のフィグア総
  理に対し、直ちにQODをリコールするようにと強く要求しました。教
  会に対するこのような執拗な攻撃が続いたために、1961年、世界総
  会は彼の牧師信任状を停止し、彼の著作を教会の出版社は書店から
  排除したのでした。アンドレアセン自身は、自分の死の直前、教会
  の指導者との和解を果たし、教会もまた、彼の信任状を回復しまし
  た。愛する教会との和解を果たした彼の言葉は、「これで私は安ら
  かに死ぬことが出来ます(55)」でした。

  (55)Virginia Steinweg, Without Fear or favor The Life of M. L.Andreasen, Review & Herald, 1979, p.181.


この記事は間違っています。わたくしが調べてアンドレアセンに近かった人から聞いた限り、アンドレアセンが晩年にそのようなことを言ったことはありません。そもそも、世界総会はアンドレアセンの牧師信任状を停止しただけではなく、彼の給与、退職金、社会保障のすべてを取り上げたのです。そうして放り出されて一文無しになったアンドレアセンがアメリカ政府の社会保障局に生活保護を申請しに行ったら、そこの政府機関の窓口の人が不審に思って「あなたはSDA教団の高い地位にあったのに、どうして自分の退職金やソーシャルセキュリティで生活せず、生活保護を求めるのですか」と尋ねた結果、アンドレアセンがそれらの保証まですべて剥奪された状態で世界総会から追い出されたという事実がわかったのです。余りの事に驚いた政府機関が、アンドレアセンの代わりに世界総会に殴り込みの抗議をして、そのような仕打ちは違法であるという告知をし、それで青くなった世界総会が渋々アンドレアセンの地位と生活保障を回復したのです。ですから決してアンドレアセンの方から世界総会に和解を求めたのではありません。山形は引用元にとしてつい最近1979年のR&H(世界総会の失態は書けない立場)の後付け記事を表記しています。御用機関の世界総会の醜態を後付けて美化して終わらせるための作文を引用してアンドレアセンを貶めているのは悪質です。アンドレアセンはSDAの召しと信仰のために最後まで妥協せずに戦った戦士だったのです。

山形ケンジのアンドレアセンの原則主義に対する反抗と反発は、ジョージナイトの関連引用と並んで、本書の第一章から全開でほとばしり出ております。それについてもこれから順次批判と誤謬の指摘をしてゆきたいと思います。

山形先生。この件についてご異議が御座いましたらご遠慮なくご指摘願います。SDA嵯峨野教会BBSは信徒の前に開かれ公開されたインターネット教会です。



  • [15]
  • 山形謙二の改訂版が

  • 投稿者:嵯峨野教会牧師
  • 投稿日:2021年 7月 3日(土)17時49分17秒
 
花田牧師がライフで絶賛推薦していたものですが、とんでもない逝かれた内容に唖然としています。花田はどこに目が付いていてそういったのか不明ですが、この本は日本のSDA教会の召しと信仰を破壊するほど危険なものです。嵯峨野教会理事会の書評ではこれから山形の本の危険性を公に説明してゆく必要を感じ、そう計画を致します。そうしなければ日本のSDA信仰は滅亡です。

ユニーク度 ☆☆☆
史料価値度 ☆☆☆☆☆
伝道貢献度 ☆☆
おすすめ度 ☆
教会破壊度 ☆☆☆☆☆


  • [14]
  • やっと届いた

  • 投稿者:嵯峨野教会牧師
  • 投稿日:2021年 4月11日(日)07時45分25秒
  • 編集済
 
コロナ禍で日本からアメリカに来る郵便小包、貨物が滞留していて、注文してから三か月も経って届きました。途中で抜き取られなくてよかった、
嵯峨野教会牧師
その日のうちに完読しましたので、次は書評を書きます。ごついです。

Neurological application
https://www.mdpi.com/2072-6643/9/7/659
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/24948051/
https://science.sciencemag.org/content/350/6266/1391.abstract

COVID19 prophylaxis and treatment
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC7553131/


【書評】
これはセブンスデーアドベンチストの医師による2010年の発刊である。誰を読者対象としているのかはイマイチ曖昧でよくわからない。筆者は2007年からの臨床経験に基づいてビタミンCの臨床的有用性を経験し、その成果をまとめたと言うものだ。ビタミンCというありふれた物質が、実は抗がん作用、高血圧、糖尿病、免疫疾患などに効く事を述べている。奏効の理由は推測のレベルであるにしても、はっきりしていると思われるのはビタミンCの抗酸化作用がその基礎にあるという事だ。フリーラジカルの酸化反応を制すれば多くの病気が治療できる希望があると言うのがこの本の要諦である。水上氏によると、ビタミンCの治療効果に関する論文は今までに4万に達するとしているが、グーグルで検索できる文献の数は今は必ずしも多くない。Mayo Clinic やSloan-Ketteringからの否定的論文が出されたので整理されてしまったというのは推測である。彼には600の夥しいビタミンCの成功症例があったとしているが、その内訳のデータが記されていないのは惜しまれるところである。癌に有効とはいうものの、どんな癌の細胞のいかなるステージの癌であったのか、そのCancer cell typeの違いによって効果には違いはないのかという研究もされる必要がある。またビタミンCの作用機序として単に抗酸化特性に帰するにしても、分子生物学的にどこに作用しているのか、細胞膜なのか、細胞間伝達物質なのか、タンパク質合成系なのか、mTOR系なのか、AUTOIMMUNE系なのか、と様々に分岐している可能性もある。そうでなければ、ビタミンCが何にでも効くという状況は得られないのではないか。水上氏はビタミンC療法の何処が批判されているかには簡単に触れている(治験でビタミンCの代わりにdehydroascorbic acidが使われたこと)。水上氏は600人の患者の経験があるとしているので既にそれを基に論文を発表できるだけのデータベースがあるようだ。だから其れに依ってペーパーを出したり追試や批判する論文に対する反論も出してゆけるのではないかと思う。この本の出版の後に、上のような神経疾患に対する有効性を示唆する論文も2017年に現れている。また一方、2020年にはビタミンC療法の無効を主張する論文も現れている(https://journals.lww.com/ccmjournal/Abstract/2020/07000/Harm_of_IV_High_Dose_Vitamin_C_Therapy_in_Adult.38.aspx内容詳細不明)。こうした支援論文や反対論文を丹念に潰し読みをしながらこの原理が発展する可能性を信じたい。
ユニーク度 ☆☆☆☆
史料価値度 ☆☆☆☆☆
伝道貢献度 ☆☆☆☆
学会受容度 ☆☆☆
おすすめ度 ☆☆☆☆

  • [13]
  • 教団堕落の根源となった出版物

  • 投稿者:嵯峨野教会牧師
  • 投稿日:2021年 2月21日(日)23時32分13秒
 
これを潰せば日本の教団の改革と矯正も可能です。




曾根田も罪作りな奴だったな。

  • [12]
  • 久しぶりに書評

  • 投稿者:嵯峨野教会牧師
  • 投稿日:2021年 2月11日(木)06時06分15秒
 
.

  • [11]
  • 亀谷文書の特徴

  • 投稿者:嵯峨野教会牧師
  • 投稿日:2018年 4月15日(日)07時34分25秒
 
聖所の教理と調査審判の教理は両立しないと言っています。

SDAが聖書に預言された最後の残りの民の教会であることを認めています。
(そこは雑木林の石松長老(その正体は白石尚と言われている)と大違いです。奴はSDAがそうであることを否定して中庸を説く小心者です。)
しかし、それでいてEGWの証の文の言葉の信頼性に疑義を呈して自家撞着しています。違いますかね亀谷先生。

EGWの文書はともかく、預言の霊についての言及はありません。教会を導いたのはEGWであるというより、預言の霊なのですが。

人間の自然で素朴な理解を、聖書の論理に対して優先しています。あるがまま主義は人間を清めません。

誰に何と言われようとも証の文に間違いがあることを指摘するのを自分の一生の使命と明言しています。(嵯峨野教会牧師が心を鬼にして教団の不正と対決することを使命としているのに似ているw)


一応これがアバウトなこれまでの所の印象の総括です。

  • [10]
  • 亀谷医師の出版文書は

  • 投稿者:嵯峨野教会牧師
  • 投稿日:2018年 4月14日(土)20時48分50秒
 
私の友人のロイ・ゲインを巻き込んだ騒動になっていたようです。

安易な自然解釈が目立ちます。自然な解釈と言うのは、時代によって何を自然とするかが異なり、おのずと相対的になります。こういう自然解釈による相対主義こそ山地・白石が望んでいたことだったのではないかと思います。「こう考えるのが自然だ」といいながら安息日が教会員に冒涜されてきたロマリンダの苦い経験がありますので私も注意警戒しています。

もう少ししたら援軍を得て解決させたいと思います。ダニエル書は最後までわが教会の特徴であり、アキレス腱であります。聖書研究を根本的にやり直してでもセブンスデーアドベンチストの使命を全うしようではありませんか。

  • [8]
  • エクレシア会の会報が束になって送られてきたが

  • 投稿者:嵯峨野教会牧師
  • 投稿日:2018年 4月14日(土)13時44分19秒
 
色々わからなかったことがまた少しわかった。とても書評に書けるような
ものはないが、読んで損はしなかった。

  • [7]
  • 不思議な本が手に入った

  • 投稿者:嵯峨野教会牧師
  • 投稿日:2018年 4月 9日(月)12時08分31秒
 
本と言うよりも、その原稿であるが。

亀谷純三氏の書いた調査審判の聖書的根拠についてのもので、40ページ
程のものだ。これか、雑木林の石松が読んで盛んに意見を書いていたのは。
一見して一般の信徒がこれを読んで内容を理解しているとは思えない。
あとでゆっくり書評を書くとしよう。
しかし、最初の印象を言えば、こんな本が福音社から出される可能背
があったなら、私の「犬解剖物語」も福音社から出された可能性もそ
こそこにあったということである。失礼を顧みず言わせてもらった。

  • [6]
  • 創造論

  • 投稿者:嵯峨野教会牧師
  • 投稿日:2017年10月23日(月)18時26分11秒
 
http://257.teacup.com/newsda/bbs/1186

  • [5]
  • このような本が出回っています

  • 投稿者:嵯峨野教会牧師
  • 投稿日:2017年 5月22日(月)19時18分54秒
 
福音者からの出版ではない。ある方から嵯峨野教会に送られてきました。日本では一般の教会メンバー、求道者はどうやったら入手できるのですか?



  • [4]
  • サンタ苦労す

  • 投稿者:嵯峨野教会牧師
  • 投稿日:2014年12月24日(水)15時12分22秒
 
安部次郎
「三太郎の日記: 青春の苦悩、魂の遍歴!」
角川文庫 昭和54年初版発行


外がクリスマスでサンタクロースがうろうろしているので思い出した不朽の名著です。
私が日本で学生の時に読みました。今学生をしている皆さんにもお勧めしたい一冊。

「俺の心には常に創造の要求がある。魂の底に潜む一種の不安は常に静かなる外物の享楽を妨げている。
・・・。俺の心は常に最新の問題を誤魔化している様な不安を感ずる。
道草を食っているのだという意識は常に当面の経験に没頭することを妨げている。
従って俺には本当に我を忘れた明らかな吸収の時期が無い。」
自己喪失と生きることへの疑問。その人類永劫の苦悶を抱え、なお高潔なる人格を求めて止まぬ著者の若き日の苦悩と思索の記録。イチゴの空語も一行の疎論もない。驚くべき真摯さと強靭な思索態度は時代と主義・思想を越えて若者の心をうたずにおかない青春の書。(表紙紹介より)

  • [3]
  • 宗教と民主主義は対立するか

  • 投稿者:嵯峨野教会牧師メール
  • 投稿日:2010年11月15日(月)02時58分9秒
 
信徒牧師を公然と名乗る私としては、信仰の番人として、
これ(↓)はやはり読まずに放置するわけには行かないでしょう。


ジョン・ウィッテ著、大木英夫・高橋義文監訳『自由と家族の法的基礎』
(聖学院大学出版会、2008年3月)

民主主義とキリスト教――アメリカ合衆国における自由


  18世紀末の建国以来、民主主義という抽象原理を象徴する国としてアメリカ合衆国(以下アメリカと略記)は世界の注目を浴びてきた。もちろん民主主義の定義は一通りではない。逆にそれだからこそ世界はアメリカの現実を注視し、民主主義の可能性と問題を学びとろうと努めてきたのであろう。フランス人アレクシス・ド・トックヴィルが著した『アメリカのデモクラシー』(1835)がアメリカ論の古典として今なお輝きを失わないのも、現代に通じる民主主義への問題意識がその書を貫いているからにほかならない。身分地位に依らず人に本来備わっているはずの生命を平等に扱い、思想信条における個人の自由を認める寛容な態度を民主主義と呼ぶならば、そのような政治原理が国単位で実現された最初の国家がアメリカであった。その社会を実体的に把握することこそが民主主義の理解につながると当時の知識人は考えたのである。しかし、民主主義を象徴するアメリカ、自由や平等、寛容を旨とするはずのアメリカが、先進諸国中最も宗教的であるとされるのは何故だろうか。宗教的であることと民主主義的であることとは矛盾しないのか。フランスにおいては自由精神と宗教精神とが逆の方向に進んでいるけれどもアメリカにおいては二つの精神が共働して社会を支配していると指摘したトックヴィルの言葉は何を意味したのか。民主主義と宗教の関係はアメリカの自由を理解する一つの要であると同時に、きわめて理解の難しい問題として我々を刺激し続ける。

  アメリカのエモリー大学にある「法と宗教の研究センター(Center for the Study of Law and Religion)」で研究を続けるジョン・ウィッテが聖学院大学大学院総合研究所の招聘で2006年に来日した。その折りに行った講演6編を編集した本書は、アメリカの自由の奥行きを宗教との関わりから問いかける。アメリカの自由と宗教との関係に通念的な理解しか持っていなかった私のような研究者にその問いは新鮮であり、刺激に満ちていた。なかでも二点の指摘が印象に残る。一つは宗教と連邦と州との関係であり、いま一つは、宗教と伝統と法との関係である。

  アメリカは政教分離の原則をかかげる国として知られる。しかしその「分離」の意味が実は多義的であるために、一般人ばかりでなく、研究者の間にも多くの誤解が存在する。たしかに、ヘンリー. S.コマジャーやヘンリー. F.メイをはじめとする二十世紀後半のアメリカの思想史家たちは、その多くが、信仰と理性の働きを峻別する西欧啓蒙主義の所産とアメリカの建国を捉え、政教分離を政治権力と宗教権力の分離と字義通り解釈した。そして、ジョン・ロックにならい教会と国家の分離を説いたトマス・ジェファソンらをその主導者と讃えたのである。そのためであろうか、少なくとも建前上アメリカでは、建国以来一貫して政治と宗教が切り離されてきたという理解を比較的無批判に研究者たちも受け入れてきた。しかし、その政教分離を定めた聖典ともいうべき憲法修正第一条の冒頭には、連邦議会は公定宗教を樹立することが出来ないとしか綴られていない。例えば州政府が宗教と結びつくことを禁ずる文言はそこに明示されていないのである。実際アメリカでは、建国時、過半の州で公定宗教が認められていた。それが破棄され、科学主義や世俗主義の隆盛を経て、州政府と宗教との分離が20世紀半ばに連邦最高裁判所で判決されるまでには、世紀を跨ぐ歴史の紆余曲折がある。なかでも第2代大統領ジョン・アダムスがこの問題に示した英知は、フロンティアを抱えた19世紀のアメリカで政治と宗教の関係をバランスよく保つのに役立ったとウィッテは説く。その経緯を辿る議論は従来の歴史解釈への批判的検討に満ち淀みがない。

  ウィッテのそうした歴史観の根底には、啓蒙主義的な意味での政治と宗教の分離を認めながらも共同体の秩序を安定させる力を宗教に期待する姿勢がある。ウィッテ自身はそれを「非本質的な事柄」に政教分離の原則を押し広げずに「相応の分別」を発揮する国民の良識もしくは伝統と捉える(本書167-68頁)。幾つかの州で行われ始めた「契約結婚(コヴェナント・マリッジ)」の法制化を事例にその伝統と法の関係を問うた議論は、個人主義を至上とするアメリカ社会における宗教の新たな可能性を示唆し興味深い。コミュナリズムとの関係もさらに議論され得よう。社会全体を緩やかに包む道徳のような力をアメリカの宗教に認めたトックヴィルの議論はやはり慧眼であったと言うべきなのであろうか。そうした思いを本書は私に残した。


牧師注:
リベラルや人間主義的詭弁に対する対策は常に万全にしています。
それだからこそ嵯峨野教会は構想20年、発足して10年以上維持できました。
感謝。

私も書評を書きますが、皆さんの中でもし既に読んでいる人がありましたら
書評を歓迎します。
もちろん翻訳者からのメッセージは最敬礼で歓迎してたっぷり可愛がってあげます。


  • [2]
  • 書評 正しすぎてはならない

  • 投稿者:嵯峨野教会牧師メール
  • 投稿日:2010年 8月23日(月)12時00分40秒
  • 編集済
 
これはSDAの書籍ではないが、あるSDAの人がこの本の「朝食読書会」とやらに出席しているというブログ記事を見て、いかにも胡散臭いタイトルに引かれて、一応私も自称牧師として目を通しておかなくてはなるまいと思い、アマゾン経由で取り寄せた。著者は私と同じ大雪山のふもとで生まれた北海道人で、証券マンをしていたのをやめて牧師になり、現在は首都圏の単立教会の牧師をしておられるのだそうだ。

副題は「伝道者コヘレトの書の翻訳と解説」とあり、ヘブル語の言語から丁寧に訳したものに対して自分の解説をつけるという体裁を取っている。時間が無いので翻訳の内容の是非まで踏み込んで論じることは出来ない。あとがきによると聖書学者から翻訳文を高く評価して貰ったと書いてあるので取りあえず信じて読む。しかしその解釈というのが非常に世俗的なのである。豊富な読書量からいろいろな雑学的引用を施している。そもそも伝道の書そのものがある意味でソロモンの時代の四方山話からの教訓の集積集なのであるから、それに似たような状況を説明する現代の話を持ってくるのはこの人は得意そうである。しかし細かく見てゆくと首をかしげるような解釈をしている所もある、3:19を「人も獣も霊はひとつ」だから、人は神の形に作られたという創世記の聖句を人と獣は異なると解釈するのは拡大解釈だとあっさり断じている。もっともらしいことを書いているのであるが、ところどころヒューマニズムやらニューエイジっぽい一方的な記述がゴロゴロ転がってて忠実な聖書信者にとっては読みにくいこと限りないのである。挙句の果てにはビートルズの歌詞を引用して持ち上げてみて、結局この人はビートルズを神からの預言者かなにかと思い込んでいるのではないかと、最後にはがっくりきます。聖書の言葉を処世術、人生訓として解釈していると見ました。

私たちが律法主義に陥らず、神のみ言葉にたよりすがって生きている限りは正しすぎることはありません。私たちを正しく立てるのは神の義であって人の義の思いではないからです。

実用度   ☆☆☆☆☆
ナイーブ度 ☆☆☆☆
有害度   ☆☆☆☆☆
おすすめ度 ☆

  • [1]
  • 書評 私はどうしてアドベンチストになったか

  • 投稿者:嵯峨野教会牧師メール
  • 投稿日:2010年 8月23日(月)11時41分7秒
  • 編集済
 
「PMMストーリーズ」として韓国で印刷され、日本語、英語、韓国語、中国語に翻訳されたもののうちの日本語訳を手に入れた。57人の最近バプテスマを受けたばかりの人の証と、日本の水野牧師の証が収録されている。水野牧師の証は、名古屋近郊の瀬戸教会が人が去り荒廃してもうこれでこの教会は終わりか、神様助けてください、と祈った所韓国からの助けが与えられ、教会が3桁の数の訪問者であふれかえるようになって新しい建物も建ったという驚異的な証である。それ以外はだいたい、新しく信者になったフレッシュな人たちの証が集められている。私たちはこんな証よりももっと信仰の年数の行った人の信仰の葛藤に勝利した証を聞きたい、という人もいる。そういう手の証を聞きたい人にとってはこの本は表面的には必要に答えない本のように見える。またある人は表紙の写真に川の中をザブザブと歩いている三人の人を見て一体この人たちは何をしているのかと奇異に思われるのではないかと表紙のデザインで中身を判断しているようである。しかしこの本の中に書かれているそれぞれの人たちのドラマを読めばそれが何を意味しているか理解するのに決して困難を来たさないだろう。

こういう種類の信徒の証の本は30年前ならもっと沢山あった。今はどうしているのかわからない。また、こうした証が触発されて公にされているのは明らかにPMMの働きである。彼らは日本の各地で働いている。PMMを必要としていないSDA教会では証があるのかと心配をする。なお、この本は教団の書籍部では扱われていない。希望者はもよりのPMMの牧師にお問い合わせをすることをお勧めする。

熱心度   ☆☆☆☆☆
ナイーブ度 ☆☆☆
懐かしさ度 ☆☆☆☆
おすすめ度 ☆☆☆☆☆